フランクル 夜と霧のあらすじと感想。

今回は言わずと知れた、名著、
ヴィクトール・フランクル「夜と霧」のあらすじと感想です。

こちらのヴィクトール・フランクルはユダヤ人の精神科医で
ユダヤ人を虐殺するためだけに作られた
アウシュビッツ強制収容所に連行されます。

生存率0.052%とも言われる地獄から生還し
そこでの体験を書き記した一冊になります。

 

僕はなんか第二次世界大戦って人めっちゃ亡くなったし怖い。とか
アウシュビッツは大量虐殺があるから、、、なんか怖い。みたいな気持ちで
社会人になるまで、ずっとなんとなく敬遠していた本でした。

が、自分自身、来月、世界一周旅行をいくので
世界中の歴史、地理なんかをめちゃくちゃ研究しています。

ヨーロッパの近代史、世界史を改めて研究しなおす中で
避けて通れないのが、アウシュビッツだと感じ読みました。

今回の記事を読んで興味が出た方は、原作を
リンクを貼っておきますので、ぜひ読んでみてください。

夜と霧

 

読む時は、こんな歴史が世の中にはあるのか。と
とても心苦しい気持ちになるかもしれませんが、

今のこの社会や平和というのは
こうした尊い犠牲と、たくさんの人類の過ちの上にあるので
世界史や、こうした歴史的名著を読むことには
大いに意味があると考えます。

「夜と霧」のあらすじ

この本はユダヤ人としてアウシュビッツ強制収容所に移送され
身ぐるみを剥がされ、すべての持ち物を奪われ、髪の毛を剃られてしまい
朝は黒く濁った液体、昼は腐った野菜の入ったスープ、夜は少量のパンとマーガリンという
まったく栄養状態が足りていない極限状態でありながら

極寒の地で囚人番号を押され、
何年間も重労働を強いられながら、
また致死率99%以上という劣悪な環境下

精神科医であったヴィクトール・フランクルが
そんな地獄よりも地獄であった環境の中で

・どのように生き抜いたのか?
・生き抜いた人間とそうではなかった人間の決定的な違いは何か?
・人間の究極の目的とは何か?
・地獄の苦しみのなかで人は何を見出すのか?

などなど
人としての究極の尊厳、あり方というのを提唱した
歴史的な名著です。

これが実際に世界で起きたのか、、という驚きから、世の中や人に絶望もしますが、
それでも世界は美しい。と言い切ったフランクルの高い精神性に触れることで心打たれる一冊です。

 

そして

・生き抜いた人間とそうではなかった人間の決定的な違いは何か?

という先ほどの問いについてですが

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

とフランクルは答えています。

僕はここに特に感動をしました。あとで解説していきます。

ホロコースト(大量虐殺)とは?

ここでホロコースト(大量虐殺)について
解説をしておきます。

 

第二次世界大戦中、
侵攻を続けていたナチスドイツに捕まった
ヨーロッパ中のユダヤ人は女子供も関係なく、
強制収容所にどんどんブチ込まれました。

列車による3日以上にわたる長き移動を立ったまま、
小さな貨物車で、100人以上が輸送されました。

人が雪崩のように出てくる、この写真からわかるように
移動中、本当に足の踏み場もなかったのです。

座ることも眠ることもできず
トイレもないため、衛生的にも最悪。
みな、やむを得ず立ったまま、服を着たまま用を足していました。

老人や病人などはアウシュビッツに到着する前に
絶命してしまった人もいます。

 

そして命からがら収容所に到着しても
そのほとんどは初日の”選別”によって
すぐにガス室送りとなりました。

老人、子供、女性、病人、妊婦は
もれなくすぐにガス室送り。

ガス室ではネズミ用の毒ガスを使い
20分も苦しみ抜いた末に
一度に千名ほどのユダヤ人が
絶命していきました。

こういった非人道的な対応が
後にナチスに対しての国際的な非難を招きます。

 

そして残った1割以下の人間に対しても

・身ぐるみを剥がされ
・すべての持ち物を奪われ
・髪の毛を剃られてしまい(物資にされた)
・朝は黒く濁った液体、昼は腐った野菜の入ったスープ、夜は少量のパンとマーガリンだけの食事
・まったく栄養状態が足りていない状態
・服は囚人服1枚のみ。当然着替えはない。
・靴はサイズも合わない靴
・極寒の地で何年間も重労働

というとんでもない地獄を与えます。

このようにアウシュビッツ強制収容所は
第二次世界対戦中のナチス・ドイツが
考えうる限りもっとも非人道的な方法で
ユダヤ人を虐殺するためだけに作り出した収容所です。

ホロコーストはなぜ起きた?

では、ドイツ軍はなぜこのような
鬼畜の所業をおこなったのでしょうか?

それには2つの理由があります。

1つは第一次世界大戦で負け、多額の賠償金を抱えていたこと。

2つは世界恐慌が起きたこと。

この2つが重なって、ドイツの国内経済はガタガタ。
失業者が国中に溢れかえり、国民の不満も高まっている中で

ナチスドイツの総帥、アドルフ・ヒトラーは
キリスト教圏内であるヨーロッパ全土に広がっている
ユダヤ人へのヘイトを巧みに利用します。

ユダヤ人への反感を利用して
ユダヤ人を仮想敵として国を団結させます。

ユダヤ教はイエス・キリストは救世主と認めないので
そりゃ、キリスト教徒とはうまくいかないわけです。

ヒトラーは、「ユダヤ人こそ我々の敵だ、不幸の原因だ」と叫び、
人々の憎しみをあおりました。

このようにユダヤ人を迫害することで一致団結を図ります。

 

そしてドイツがポーランドに侵攻して
第二次世界対戦が勃発。

ポーランド以外にも
オランダやベルギー、デンマーク、オーストリアなどにも侵攻して
どんどん領地を拡大していくドイツ軍ですが

そこで捕まえたユダヤ人たちを
どんどん強制収容所送りにしていきます。

そしてアウシュビッツには
150万とも600万とも言われる人が送られ
そのほぼ全てが命を失うという
とんでもない大惨事になりました。

 

戦争に負けたり、国が豊かではないところでは
このように反○○感情というのを、あえて逆撫ですることで
国内の問題点を他に向けさせる。というのがあります。

こういった仮想敵批判と呼ばれる手法はビジネスでも有効ですが
使い方を一歩間違えると、このような歴史的な悲劇を生みかねないほどの
強力な手法であることは理解をしておく必要があります。

科学や技術は正しい方向性に向けられてこそ、人類の豊かさのために使われるのです。

夜と霧の、印象的な言葉

ここからは僕が夜と霧で印象的だった言葉を、いくつか紹介します。

まずは

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

先ほども紹介した、こちらです。

ともすれば、人は自分の人生に何かを求めがちです。
あれが欲しい、これがしたい。もっとこんな人生を送りたい。
もっとモテたい。フェラーリ乗りたい。とか。

確かにそれ自体は人間らしい欲求ではありますし
最初はそうしたモチベーションでいいと思いますが
長期的には人生が私たちに求める意味から行動できる方がより深みのある人生になると言えるでしょう。

生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ
という視点を手に入れると、一段高いところから
自分の苦しみなどに対して接することができる。そう感じます。

 

また、例えば
僕はビジネスを教えていますが
やはり長期的に成功する人は大義を持っている人が多いです。

自分だけが良ければいい、という考えではなく
自分は今貧乏だけど、成功したら自分と同じように困っている人の役に立とう。
こういう気持ちを持って、目の前に取り組んでいるだけで
のちのちに起きてくる結果が全然違ってくる。

京セラやKDDIの創設者であり
JALの再建をした稲盛和夫先生は、このようにして
「動機善なりや?」と自分自身に問いかけ続け
事業を生み出してきたと言っています。

今の自分の苦しみや、苦難というのは
なんの意味があるんだろう?と
客観的に一歩引いてみて考えると
冷静に自分の状態を捉えることができるようになり
今まで思いつかなかった解決策などが見えてくるかも知れません。

 

人生で苦しいときとか
何もアウトプットできないー。みたいな時って
やっぱり自分にたいしてばかり興味があって
他の人に興味を持っていない場合が多いです。

つまり、人生に期待している時です。

そうじゃなくて、
自分は何を求められているんだろう?と考えた時に
突破口は見えてくる。

このことをフランクルは示唆してくれています。

わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

こちらは夜と霧の冒頭での一言。
僕はまずこの言葉に心奪われました。

アウシュビッツのような極限下では
自分の命の安全、利益を考えて行動できるような
したたかさも必要である。ということが言えます。

例えばフランクルは精神科医であったため
監視役の男の妻が不倫をしていることの相談を受けるなどして
その男の側近のような状態になっていました。

それにより便宜を図ってもらい
そうした目に見えない協力や偶然などが重なって
自分は生き延びられたのだ。といいます。

これもある意味、極限状態での政治活動です。

 

人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。

アウシュビッツでの生活は過酷を極めました。

服は囚人服が1枚。
零下何十度にもなってしまうような
極寒の土地で、です。

真夏ならいいですが
真冬ともなれば防寒具を着ていても過酷な環境。

さらに1日でトイレは朝晩の2回だけ。
周りに人がいる中で、今からここでトイレしろ。と
尊厳も何もないトイレです。

そもそもトイレ、排泄というのは
動物であっても自分がしたい時にできるものです。
それをナチスが一方的に制限をした。
人に対する人道的な対応では全くありません。

 

寝る時は何人もの男が裸で寝かされます。
氷点下であっても裸で、です。

いやいや、囚人服着させてくれよ。という感じですが
脱走防止の目的で、それすらも禁止されます。

とにかく寒い。毛布なんかもない。
だから男たちは身を寄せ合って睡眠する。

当然枕もないし布団もないので
ベタ張りの板の上で寝るだけ。体もバキバキです。

朝起きたら隣の人が凍死していた、
なんてのも日常茶飯事。

 

食事もめちゃくちゃ不健康というか
栄養なんか何一つもないような
腐ったスープとかパンしかないので
どんどん痩せ細ります。

こういった劣悪な環境であっても
毎日重労働をさせられてしまう。

それができなくなったりすると
銃殺されたり、ガス室に送られたり。

とんでもねー地獄なわけです。

 

ですがフランクルはこうした過酷な状況にも
慣れる。と断言します。

人はそこで生きるしかない。やるしかない。ってなると、慣れるのです。
なんとかそこで生存しよう。ってなるのです。

 

現代日本っていうのは言うまでもなく、
この時代に比べてとても恵まれています。

住む家があり、食べることに困らず
日々仕事があったり、家族がいたり。

にもかかわらず、居場所がないと感じたり
生きる意味を感じられなかったりするかも知れません。

ですが、生きる意味は自分で見出していき、
また居場所は自分で作るしかありません。

 

大丈夫、死なないから。
大丈夫、慣れるから。

僕は精神的に弱かった時から
このように自分に言い聞かせてきました。

僕はインターネットを使ったビジネスからスタートしましたが
内心めちゃくちゃビクビクしていました。

失敗したらどうしよう。とか
親や周りの友達にケラケラ笑われてバカにされるんじゃないかな、とか
一般的なサラリーマンのレールから外れて落ちこぼれてしまうんじゃないか、、、とか
いろいろ考えてしまいましたが
一方でこういうふうに考えて自分を奮い立たせました。

「ビジネスやれているだけラッキーだ。ありがたい。
 失敗しても、借金とかしていないし、何度でもやり直せる。
 親に笑われても友達にバカにされても、やり続けて
 うまくいったらきっと理解してくれるし、理解してもらえばいい。
 結果で見返すだけだ。」と。

そしていつの間にか、
それが自分の人生で定着して、今があります。

 

僕も発信をしているからこそ
自分の居場所がある。という部分もあります。

億人さんの影響を受けた、とか
こういうチャレンジしてみました、と言ってくれる
仲間がどんどんできている。

こういうことに生きがいを感じるのです。

 

人は強制収容所に人間をぶちこんで全てを奪うことができるが、たった一つ、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間として最後の自由だけは奪えない

これは人間に起きる出来事に対しての
”態度価値”を示した一文です。

いかに劣悪な環境でも
醜悪すぎる人間の一面を見たとしても

希望を失って自分の人生を諦めるのか?
自分自身の人生の意味を見出して、生きる希望を持ってあらがうのか?

これは自分自身のみが決められることであり
環境や他人によって決して決められることはない。

というフランクルの強い意志を感じます。

 

当時とは時代背景は違いますが
今、この日本において自分の状況が最悪な状況だと感じていたとしても
そこには必ず見出せる意味があり、自分にしか行動・表現できないものがあると考えるのであれば
必ず活路、勝ち筋は見出せる。

僕はそう捉えました。

 

およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

正直、僕自身はここまで達観できていません。

特に死に対してはまたまだ受け入れられるものではなく、
だからこそ今、自分が生きた証を、何を感じたのか?を
発信しまくっている。というのがあります。

自分にしか書けない文章、
自分しか体験できない生き方、
自分にしかできない表現。

そういったものがあるし
まだまだ経験もたくさんしたいし

人間の歴史、
自然の美しさ、
世界の歴史の成功と失敗、
名作と呼ばれる文学や映像作品。

こういったものに触れるだけ触れて
自分にしか作れないものを作りたい。

そういう欲求が日々高まっています。

 

まだまだ死を受け入れることはできませんが
だからこそ駆け足で生きることができるのかも知れません。

 

この人生が無限にあって
命に制限がないのであれば
人は生き急ぐことはないでしょうし

命を燃やし切るような
才能の爆発を感じるような
名作というのは生まれようがないのかも知れません。

 

死の存在を受け入れているからこそ
見える世界があるし、得られる役割がある。

そんなメッセージを感じました。

 

被収容者の心にもっとも重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければいけないのか、まるでわからないことだった。(中略)いつ終わるか見通しのつかない人間は、目的を持って生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、精神の崩壊現象が始まるのだ。

具体的なビジョンや行動を持つことの重要性を話してくれています。

人は無限に苦しみが続くと感じると、生きる希望をなくしてしまう。

アウシュビッツでは、クリスマス直後に命を落とす人が多かったそうです。

長期に及ぶ収容所での過酷な生活のなかで、クリスマスには解放されるんだという、根拠はないですが、そうした希望にすがって生きる人が多く、クリスマスがきても変わらず厳しい現実を過ごすことを強制された時に、絶望し、絶命していったのです。

 

これは現代でも同じようなことが起きていると思ってまして、日々に希望がなく、同じことの繰り返しで、毎日職場と家の往復だけの生活では

自分の人生が良くなっているのだ。という絶対的な確信や安心感、希望が持たず、絶望していくのだ。と。これが現代人の悩みです。日々、負け続けたり、自分の意思とは反対のことをやり続けることで、無力感を感じてしまったり。

そうではなく、人生が前に進んでいる感じ、このままいけばもっと豊かになる。という確信や、日々苦しいこともあるけど、自分の生きる意味を見出し、それに向かって進めている。という感覚はすごく大事です。

 

僕はビジネスを教えていますが、うまくいく人はこれから何をしていけばいいのか、具体的なイメージを持っています。そして僕が人と話す時には、この「今日、今この瞬間から何をしたらいいか?」のイメージをつけてもらうことを一番大事にしています。

一方で話をしていて、今にも諦めそうになっている人は、具体的に何すればいいか?が分かっていない人や、間違った方法をずっとやってきて疲弊している。そうした方がとても多いです。

あとノウハウコレクターになっている人も、どうせこのノウハウでは稼げないんでしょ?とちょっと斜めに構えながらノウハウ教材を購入して、最初からなかば諦めてしまっている人も非常に多い。

 

例えばですが、これまで5年かけて100万を貯めてきた。それを使って、FX自動売買ツールを20万で買ったが、みるみるお金がなくなり、借金になった。

こういう人がけっこういます。

しかし、ほとんど全てのFX自動売買ツールは利益を出し続けることはありません。

また、仮にこうした手法で一時的に利益がでても、自分自身に実力がついている、人生がよくなっている、という感覚に乏しく、やっぱり不安なままです。

 

人は具体的な目標や、
具体的な手段が必要です。


それが希望となり、
行動のエネルギーになる。

だから、学ぶんです。
知は力なり。

 

学んで視点を増やし、知識を蓄えることで、自分を客観視して、具体的に何すればいいか?が見えるようになります。

 

ただしここで一点注意したいこととして

・すぐに成果が出ること
・今すぐやるべきことが具体的にわかっていること

この2つは全く違ったものである。ということです。

 

多くの人が、目の前で成果が出ることのみを求めます。
短期的に、今すぐ、目の前の問題や課題を解決したい。と即効性あるやり方のみを求めます。

もちろん、そうした手法というのも大事ですし、それによって苦しみから解放される、というのはあります。

一方で、今すぐやるべき具体的なこと、というのが今目の前で明確な成果を出さないことだってあります。

基礎的な力をつけている時、長期的な目線で努力をしている時です。

目先の損をとって、長期的な利益を取ろうっていう時に、目先の利益が出ないから、このやり方は間違っているんだー。っていうのは違います。

株に長期投資するとかも、まさにそう。目の前では手元にある現金は減ります。含み損になることだってある。でもだからといって、いや、含み損になったからもうこの銘柄ダメだ。って毎回損切りしていては、絶対に利益が大きくなることはありません。ある程度、含み損を抱えるだけの度胸というのも必要です。

でも現代では短期的な成果を出すこと、株で言うと資金効率を高めてすぐに利益化することが求められる時代なので、すぐに諦める人っていうのが多い。

 

長期的なビジョンを持って、目の前のことをコツコツやれる。こういう人が少ないからこそ、やれる人は強いなって思います。

僕自身もビジネスをする上で、なるべく長期視点を持って生きていますが、逆に目先の利益ばかり求める人は嫌われます。

一気に利益を刈り取る狩猟型のビジネスではなく、信頼を蓄えてお客さんを勝たせ続ける農耕型のビジネスをしていきたいものです。

 

話がずれましたがフランクルのアウシュビッツでの動きというのは、まさにこうした長期目線のビジョンを持った上での、目先で意味を持って行動する。というものだったと言えるでしょう。

自分はこのアウシュビッツを出て、ここでの体験や書き残していた精神科医としての原稿を完成させて、世の中に発表するんだ。この強い意志とビジョンを持っていたからこそ、看守に対して真心を持って接したり(浮気の相談に乗るなど)できたのだと思います。

ああ、アウシュビッツに捕まった、いつまでも出れへん。終わった…と考えて諦めてしまう人がほとんどであった状況において、こうして自分の中の生きる意味、生き残る意味を持っていたからこそ、要所要所の選択においてフランクルは自分自身が生き残る選択肢を、潜在意識的に取り続けたのだと言えるでしょう。

 

繰り返しになりますが

生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ

この言葉からの学びを深めると

・目の前の具体的事例、具体的出来事に対して人生は何を求めているのか?で考えるのみ

・よって、過去や未来は気にしなくていい

・自分が何をしたいか?は気にしなくていい

ということが言えます。

 

つまり目の前のことに対して、これどうやってやればいいんだ?を考えてやり続けるだけなんだよ。ということをフランクルは言っています。

 

まとめ

フランクルの夜と霧を批判する言論はほぼ見当たりませんが、「人生に意味を見出せばいい、という当たり前のことを言っているだけだ」と批判している文章を見つけました。

いやいや、その背景情報となるフランクルが置かれた壮絶な状況を考えてみたら、このような発言はできないはずです。

「人生に意味を見出す」「苦しみにも意味がある」という同じ一言を発すにしても、背景情報の深さから、その重みが全く違っているのです。

 

この不安だらけで、夢も希望もない日本においても、これだけシンプルかつ強力な考え方を持つということは、非常に人生にとってよい指針を与えてくれるものである。と僕は考えます。

極限状態のアウシュビッツ強制収容所において、人間の本質や生きる意味を問いかけ続けたフランクルからは、学ぶべき示唆がたくさんあるので、興味を持った方はぜひご一読ください。非常におすすめの一冊です。

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