コミュ障うつ営業マンから年収3億になったリアル逆転物語。自己紹介します。

こんにちは、億人です。自己紹介します。

この記事では、
就活全落ちだった
コミュ障うつ営業マン男が、

社会から逃げるように起業をして
パソコン1台で
年収3億円を稼げるようになった
成り上がりの経緯

ストーリー形式で話していきますね。

簡単に自己紹介します。

僕は2013年に起業をして
今まで10年以上経営しています。

メール3通で1億の利益を3度出したり、
投資でも何度も億り人になったりしています。

あ、怪しいかもですが2021年には
労働ゼロで3億2000万円を個人所得として稼ぎました。

また自分だけではなく
今までお客様にも
累計100〜300億ほどは
最低でも稼いでいただきました。

最近では直接指導している講座生は
100万オーバーのコンサルを
受注する人も増えてきています。

 

僕自身だけではなくお客さんにも
ビジネスで再現性高く大きな
成果(利益)を出す専門家
です。

 

「何度も億のビジネスや収益をつくる」ことから
ネット上では億人(おくと)と呼ばれています。

 

あと2023年には
仲間と16日間かけて南極冒険に行ってきました。

まずはお金と時間が増えたら
どんな人生になるのか?

そんな世界もあるんだなーと
知っていただければと思ってお話しました。

かなーり刺激的でオモシロい人生を
歩んでいるはずです。

 

よく「マジですごいけど、怪しいっすねw」
とか言われますが、事実なんです。

しかもこれを従業員ゼロで、
自分だけでやっています。

後々話していきますが、これらは全て
失敗しようがない
お金が貯まってしまうビジネスを

知識をつけて行動してきただけ。
それだけでできるようになりました。

ちなみにこれは、僕から学んで素直に実践してもらえば
誰でもできるようになります。

 

僕は今、会社を経営しており、またそこで
増えたお金を使って、株や不動産、ベンチャー企業や
有名なマンガのアプリ開発事業への投資もしています。

ブルーロックというアニメですね。

自分でやっている会社は
インターネットを活用したビジネスの会社です。

例えば売れないインフルエンサーが
儲かるようにしたり

不動産会社にネットで
見込み客を増やすための
仕組みづくりの方法を
コンサルティングしたりしています。

他にも全部で5社ほどの
経営に関わっております。

扱っている商材も様々で、
恋愛、婚活、ゲームアプリ、
不動産、シャンプーなどなど。

↓携わってるシャンプーの事業は
いろいろな雑誌に載りました

 

事業は25歳から始めて11年ほどになります。
それまではゴミクズのような扱いをされる
コミュ障うつ病サラリーマンでしたが

会社から逃げるようにして起業して
それからあれよあれよと事業で成功して
やりたいことを
全部実現する人生に覚醒
しました。

投資かビジネスどちらか
片方に精通している方は多いですが、
事業も投資でも
うまくいっているのが僕の特徴
です。

そして事業で出た収益を
投資で増やすことができるため
事業で出た利益がどんどん増える状態になります。

これが最強かつ無敵の状態なので
時間とお金から自由なイケイケな大人を増やすべく
「ネットで文章で稼ぎ、億の資産を形成する」ための情報を提供
しています。

そういった一過性の爆発力あるビジネスの作り方だけではなく、
継続的にちゃんと自分に資産(知識や経験、お金)を蓄えていく
再現性の高い方法を教えています。

これは実際に僕が10年という起業の期間で
入ってきたお金をずーーーーっと再投資しまくり
知識や経験を増やしながら、何億というお金を
事業や株式、仮想通貨などの投資に使ってきて
時には1億円が30万円になってしまうような
失敗をしながらも資産を増やしてきたからこそ
話せることでありまして。

この起業してからちゃんと
資産を積み上がってしまう生き方
をしてきたのが僕の強みでもあります。

今はこれをメルマガやブログ、
YouTubeやXなどでお伝えしております。

今まで教えた人たちは
リストゼロでも初月250万稼いだり
3年稼げないインフルエンサーが3ヶ月225万稼いだり
サラリーマン副業初月50万などなど。

経営者さんだと友達や仲間づくりのために
メディア発信するプロデュースをしたり
自社商品や思いに共感できるマンガを一緒に作ったり
単なるビジネス構築だけではなく、面白いチャレンジを
一緒にさせていただくことが多いです。

元々はただのうつ病サラリーマン

こんな感じでスーパー完璧超人みたいに書いていますが、
僕ももともとはただのうつ病クソザコ営業マンでしたし、能力も男としての魅力も1ミリもないモテない男でした。

それなのに、会社を辞めて逃げるように起業をして
気づいたら年収が3億を超えちゃっていました。

サラリーマン時代よりも全然努力していなかったのに、です。

余談ですがサラリーマンってポテンシャルえぐいです。
自分のやりたくないことや向いていないことを
1日8時間とか10時間とかできるのって継続力の塊でしかないです。

そのパワーの一部だけでも起業に使うと
本当に収入が100万、200万とかって増えていくので
かなりオススメです。

じゃあ稼ぐために実際どうすればいいのか?
このあたりの話もこのブログではしていきます。

 

話を戻します。

25歳で初めて自分でお金を稼ぐまでは
仕事できなさすぎて上司から毎日
「なんでお前は売れねーんだ?顔も見たくねーよ。死ね!」
と言われ続けるサンドバック状態のクソザコ影響マンでした。

まあ、今考えると上司の教え方が非常にヘタだっただけなんですがw
人生で初めて学んだ相手が素人だったっていう、クソみたいな理由で
僕はミソカスにしばかれていました苦笑

でも当時は知識がないし自信もなかったし、会社が全てという人生を送っていたので
自分は営業ができない、できない、ってふさぎこんでしまい
営業マンなのに営業するのが怖くなってしまい、コンプレックスの塊でした。

営業するのが苦手すぎて、最後には営業もしなくなりました笑
毎日のように会社があった東京駅の丸の内ビルディングから
近くの皇居沿いにある公園まで歩いていって、そこで朝から晩まで
ダラダラスマホをいじったりYouTube見たりして1日を終える。
そんなくだらない生活をしていたのです。

しまいにはうつと診断されて、心が折れました。
ああ、もう会社辞めよ。辞めてから考えよ。このままじゃ死ぬ。と。

このまま行ったら死ぬ。自分の心が本当に壊れる。
そう思った時、何かが吹っ切れて、
今までやってきたことは
全部間違いだったんだ。

起業して、人生やり直そう。

そう思ったのです。

それは前向きな起業ではなく
社会に適合できなかったがための
後ろ向きな起業でした。

なので、激務したくない。笑
本当はサボりたくて起業を始めました。

会社員しんど!!!
もう絶対無理すぎる…

っていうのが本音。

だからこそ、サボれる仕組み作ろう。
ここを研究し続けて10年。

ガチでサボり続けて
労働ゼロで年収3億。みたいな。
そういうことになっちゃった。

でもサボりたいという欲求が強すぎて
その結果、大きな実績を出せるようになりました。

 

僕のこのブログでは
僕の経験を交えた
本当の意味で時間とお金を増やしながら
健康や人間関係、家族との時間など
プライベートを犠牲にすることなく
どんどん豊かになっていく方法を書いています。

 

ぜひ興味がある記事からどんどん読んでください。

そして僕がこのような活動をご覧いただく上で、
僕の過去の生い立ちや経歴を共有しておくと、
より理解しやすくなりますし、
あなたの世界の見え方への解像度が上がり
僕のブログの内容を理解しやすくなります。

 

なので、少しばかり僕の過去の生い立ちの物語を
今から共有をしていこうと思います。

ーーーーーー億人の物語ーーーーーー

僕は、10歳からずっと働きづくめという
環境の中で25年ほど生きてきました。

 

生まれてすぐ〜母におぶられて仕事場へ

僕が生まれてからずっと、父母は共働きで働いています。

いわゆる典型的なワーキングプア(働けど暮らしは良くならない人)でした。

僕が生まれた時、父と母は九州は鹿児島の田舎で、
夫婦だけで居酒屋を経営していました。

僕が生まれる前も後も、
母はすぐに仕事に出ていました。

僕が生まれてからは、
母におぶられて仕事場へ。

母の背中で揺られながら
寝ていたそうです。

 

ちなみにこの頃の僕は階段を
後ろ向きにハイハイで降りるような
慎重な人間だったらしく。

子供によってはガンガン階段を立って降りたりしますが、
昔は超ビビりな性格だったのがこの話でも分かります。笑

 

なんでこの話をしたか?というと
うちのオカンは本当にできた人間で。
子供がいるのに子育てもしながら
すぐに仕事の現場に戻ったり
家事もやり続けるような人で。

 

余談ですが世の中のお母さんって、
本当にすごいな。って思います。

子供の夜泣きにミルクをあげたり、泣き止まないからって
眠い目をこすりながらふらふらで子供をあやしたり。
朝起きたら睡眠不足で本当にしんどいのに子供の前では
ずっと笑顔で生きなきゃだし、それをやってからは
掃除や洗濯、ご飯を作ったりして旦那さんの疲れを癒す。

しかも副業している人って男性よりも現実が見えていて
将来への不安とか子供の養育費のために必死にお金作ろう
ってブログ書いたりYouTubeやったり。

こんなにマルチタスク、男じゃできひん。
男は仕事しかできないのに、
僕なんか仕事もできなかったクソザコ営業マンなんで、
女性が本気出してビジネスに知識投資してガチったら
誰も敵わないんだろうなーって思う。

おっと、自分の自己紹介でした。次行きます。

幼稚園〜大阪へ。お金と将来のことで父母がモメる。

2歳の時、大阪に引っ越します。

なので幼稚園から大学生までは大阪にずっと住みます。

 

幼稚園の時も父母は
共働きをしていました。

大阪ではお好み焼きや
おはぎなどの和菓子をあつかう
移動販売の仕事をしていました。

移動販売をご存知ない方もいるかもなので
簡単に説明しますと

屋台みたいなやつですね。
あの屋台をスーパーの一部を間借りしてやっていました。

イオンやスーパーなどの店頭で
期間限定のお店をする人たちの仕事のこと
です。

なので、毎日、食材の仕入れと家賃がかかります。

 

家賃は、売り上げに応じた変動制で、高かった。

例えば売上が10万円なら5万円の家賃。
売上が20万円なら10万円の家賃みたいな感じです。

なので儲けはほとんど出なかったようです。
毎日家賃が5万もかかるとか、家賃高すぎ笑

 

そのため当時はうちは貧乏な家庭でした。

築40年、家賃4万円くらいの
地震がきたら今にも壊れそうなボロアパートに家族で住んでいましたし、

お金と将来のことで
父母が揉めることも多かったです。

酒に酔って感情があふれた父が暴れ、
母が泣きながら「もうやめて」という姿を鮮明に覚えていて
お金がないことは、夫婦関係を悪化させることもあるのだと
子供ながらに思いました。

 

その頃は当然、すべての情報が家の中から、
もっと言えば父母の言動から受けていたので

・お金は汗水たらして働いて稼ぐもの

・お金を貯めるのは大変なこと

・貧乏清貧(貧乏こそが清く美しい)

・お金持ちは何か悪いことをやっているに違いない

・とにかく働いて働いて働いて、金持ちになるんだ

・真面目にやっていたらいつか報われる

みたいな口グセを聞いていたので
仕事やお金に対してそのように思っていました

それにティッシュの使い方にまでうるさいくらい
けっこう貧乏性でした。

「ティッシュ使うな、もったいない」
「ペットボトルの飲み物なんか買うな」
みたいな。

今になるとこれは、限られた世界の
限られた価値観でしかなくて

父母はそれを信じて生きていたに過ぎませんし
僕がどういう価値観を信じて生きるかは
自分で決めてよかったわけですが

少年時代の億人くんにとっては
父母が世界のすべてだったので
25歳くらいまでは労働者として
これらの価値観に染まったまま
生きることとなりました。

 

だから自分が将来起業をしたり
インターネットビジネスをするとは思わなかったですし
投資家になるなんてガチで1ミリも発想しなかった。

 

まだ1990年台前半のことなので
「インターネット?なにそれ?」
「投資?バブルはじけましたけど?」
みたいな世界観でした。

 

まだ家庭にパソコンやiPhoneなんてものは普及しておらず、
任天堂ゲームボーイやたまごっち、
デジモンなどが最新の電子機器でした。笑

 

なので自分が将来インターネットビジネスをするとも思わなかったです。
でも今となってはあたり前。人生面白いですね。

知識や最新のデバイスとの出会いで
僕の人生は後々大きく動くのでした…

小学生〜10歳・小4で労働スタート(強制)!怖いヤ○ザの常連さんに怒られる

ぼくは、10歳から、労働者でした。

きっかけは両親が10歳から
飲食店を始めたこと。ラーメン屋でした。

当時、僕の住んでいた地域には
美味しいラーメン屋が少なく、
まだまだラーメン市場はガラ空き。

もともと料理人をしていた父親は
前の仕事を不況によってリストラされて
ラーメン屋で一旗上げることに決めました。

結果は、とにかく売れました。

元旦以外はずっと働きっぱなし。
朝7時から夜25時とかまでずっとラーメンを作る父。

料理人をしていたことによる持ちまえの料理技術と
ラーメンの本場、福岡の博多で修行したこともあり、
努力が実ってどんどんお客さんが来るようになりました。

行列がすごすぎて毎日のように警察が
交通整理をしにきたり
「路駐だめですよー!ちゃんとお店の人が指導してください」
とか言ってきたりして

クソ暑くて忙しいラーメン屋をやりながら
交通整備をしていたのを今でも覚えています。

 

と、そこまではよかったのですが、
1つ問題がありました。

アルバイトが、続かない。苦笑

そう、職人肌の父親でしたので
人とのコミュニケーションはめっぽう苦手。

人の良いところを褒めることなく
できないことをひたすら
無愛想に指摘する父だったので
アルバイトも1ヶ月続かないことがザラで
人が育たない環境でした。

 

そこで白羽の矢が立ったのが、億人でした。笑

父「家族だから、働け。お前は長男やしな。バイト代やるから。」

僕「え?僕だけ働くの?弟は?ズルない?」

父「あいつはアテにならん。お前の弟やろ。
そんなにかわいそうなこと言うなや。
あいつは遊びに行くし。お前が、やれ。

僕「・・・・えー。。。」

という感じで、
僕が父からの圧力を受け、
10歳から働いていました。

まあ、長男でしたからね。
長男特有の責任感みたいなもので
イヤイヤながらも働いていました。

父も母も弟も、全員末っ子。
頼るのは上の兄弟と
相場は決まっています。

これが僕が、10歳から
労働デビューしたキッカケです。笑

大学出て東京に出るまでなので、23歳まで13年。
週末を中心にほぼ毎週働いていました。

 

もちろんお小遣いをもらえる
という意味では嬉しかったです。

欲しいマンガとかゲームは
自分で毎回変えてしまいましたし。

でも、正直、小学生の僕にはデメリットの方が多かった。
労働サイコーとはならなかったですね。

 

例えば、友達と遊べなかったことがとにかくイヤでした。

子どもだから、めいっぱい遊びたいですよね。
毎週土日が来るたびに僕はバイトしているのに、友達は誰かの家であそぶ。

スマブラとかマリカーとかみんなしていた。
すると、僕だけ話題についていけなくなります。

これがとにかくツラかったです・・・。
月曜日に学校行くのがしんどかった。

毎週友達の話題に置いてけぼりになる感覚。
話題についていけない自分が惨めで、
徐々に友達との距離を自分から取るようになって
コミュニケーションに苦手意識を持つようになった。

もともとそんなに外交的ではなかった
と思いますが、だからこそ

友達同士が仲良さそうなのを見て
さらに気が引けてしまって
自分から「遊ぼう」なんて
言えなくなってしまいました。

自分が誘うと、迷惑をかけるんじゃないかな、
なんて思うようになってしまい。

今考えれば本当はそんなこと
まったく気にしなくてよかったし
今じゃ全然気にしないんですが
当時の僕にはまったく自信も知識もなかった。
だから悩んだんです。

「仕事ばっかりしている自分なんか、
つまんないんじゃないかな」と思うようになって。

こうした内向的な性格が強くなったのも、
当時はツラかったです。

この経験により僕は10代の頃から
いくらお金があっても
時間がなかったら
豊かな人生にはならな

ということに気づきました。

大切な友達との時間は
今いくらお金を積んだとしても
決して帰ってきません。

このさびしくてツラい気持ちを
10歳のころから痛感しました。

思えばこの経験が僕に
お金と時間を両立しないと、と
強烈に願うようになった
キッカケの1つかもしれません。

 

バイトは強制的に働かされていたので
当然やる気もありません。

適当に仕事していたら、ある日、
見た目も中身も怖いおっちゃんに
思いっきり怒られました。

その人から注文を受けて
返事をしたつもりだったのですが、
てめえ、聴いてんのかコラ!と。

店の中は一瞬シーンとしましたが
こいつがちゃんと注文取らんからや!と
そのおっちゃんはさらにブチギレ。

さらに親にも怒られることになり
僕は散々な目に遭いました。

正直、やりたかったことじゃないし、
やらされているだけの仕事だったので、
僕の目から見たら理不尽でしかなかった。

でも、
「お客さんと関わることってこういうことか、ちゃんと声ださないとな・・・」と
自分を無理やり納得させるような10代前半の少年でした。

 

もちろん父だって、それ以外のことでも怒ってきます。笑
バイト代を払う以上、そりゃ当然なんですが、
バイトが続かないようなコミュニケーションしか取れないような人です。

そりゃもう、僕とも喧嘩ばかり。
「出ていけ」「帰れ」なんていうのはしょっちゅう言われていました。
(そして実際にたくさん帰ったのもいい思い出wwww)

 

このように、嫌な思い出が
たくさんあるバイトですが
いいこともありました。

それは長期的に働き続けたことで
今になって分かったことなのですが

たとえば、社会人生活を10歳からできたということ。
親の近くで労働していたからこそ
このまま肉体労働を続けていたら
どんな無理ゲーな人生になるのか?を
若いうちからシミュレーションできたこと。

このまま労働しながら
40、50とか年齢を重ねていく人生はだめだ。

ましてや80歳とか90歳になって
死ぬまでラーメン屋で働いたり
肉体労働するなんて絶対無理。

早い段階で違う方法を探さなきゃ。
そう思い、僕は起業や投資などについても
バイト代を片手にブックオフや本屋に行って
勉強をし始めたのです…

お金が増えても、時間が減っては本末転倒。

また、10歳から労働をしてきて、
父母と家族の生活レベルが上昇する中でも、
一度作ったら自動で儲かる資産型ビジネスを始めることになる
圧倒的な気づきを得ることができたのです。

それは、こんな気づきでした。

 

最初は一旗あげようと
ラーメン屋を始めた父でした。

前職をリストラにあってからは
半年くらい、ずっと家に引きこもる父親で、
貯金を食い潰しながら生活をしていました。

日々なくなっていく貯金、
次に何かをしなくては、、、と思いながらも
時間だけがたくさんあり、
その時間も消費されていく毎日。

そんな中で
「(福岡の)博多ラーメン屋するわ」
といきなり言い出して、
その日のうちに福岡・博多のラーメン屋に連絡。

その次の日にはすぐに本場・福岡に
新幹線で移動して、弟子入りしていた父。
(この行動力と嗅覚は、親ながら、すごい。)

時間と希望がたくさんあったので、
とにかく身軽に動いていました。

子供ながらに、この時は
「自分のやりたいことできていいな。
お金はなくても、なんか楽しそうな夫婦だな」
と思ったものです。

 

そして修行期間を終えて、
どこに店を作るか決め、
厨房機器を買い込み、店舗を作り、
のれんやのぼりのデザインと発注をして、
いよいよお店をオープンすると、

朝10時から夜11時まで
お客さんが途絶えることなく
住宅街でやっていたラーメン屋でしたので
片側一車線ずつの道路だったのですが
その道路がうちのラーメン屋のお客さんの車で
埋め尽くされるような日々でした。

そう、近所にうまいラーメン屋がない
というブルーオーシャン市場において、

圧倒的な味で勝負をするという
父親の選択は見事に的中して、儲かりました。

そこで、新たな問題として出てきたのが、
人を育てられないという問題です。
これは致命的で、職人であり経営者である父の
時間が作れないということを意味します。

ずっと、自分が現場に出ないといけない。
ずっと、自分がラーメンの仕込みをし続けなくてはならない。

うまく言語化できなかったり、
うまくレシピ化、ノウハウ化できなかった。

だからこそ店が20年続いた
競合優位的な要素もあるのですが、
結局一番致命的だったのが、
時間をつくれなかったこと。

 

そう、労働者という立場である限り
時間が絶対的に作れないんですよね。

労働者のジレンマが発生して、
暇な時はお金がない。
(時間があってもお金がない)

儲かれば儲かるほど、
自分が現場にいる必要があり忙しくなる。
(時間がなくてお金がある)

 

極論言ってしまえば、
時間があってもお金がない
時間がなくてお金がある

時間がなくてお金もない
このどれかになってしまいます。

 

そして残念ながら父母も例外ではありませんでした。
事業が軌道に乗ってようやく金銭的に豊かになってきたと思ったものの、
今度は逆に時間がなくなり、体と精神の疲れがピークに達して
イライライライラするようになっていたのです(特に父が)。

 

幸せになるために仕事をしている。
なのに、働けば働くほどお金は増えても、夫婦ゲンカが増える。

いったい、なんやこれは??
働いて、お金を稼げば幸せになれるんじゃなかったのか?

それを信じてやってきた父母の努力はなんだったんや?!

僕が友達を遊んだりすることを犠牲にして労働に費やしてきた時間は、なんだったんや?!意味わからん…

なんともいえない
二度と取り返せない
時間に対しての虚しさや怒りが
こみ上げてきました。

このように仕事に対して思ったのが
僕の10代の時の切実な悩み
いや、心の底からくる痛みでした。

 

  • 金がなくて自由がない
  • 時間の自由がない
  • 自分の人生の使い方も
    自分で決められない

僕は無力だった。

こんな人生が10歳から23歳まで続き
親の言いなりのような人生でした。

結局、親が勧めるまま
会社員になって僕はうつになっていく…

 

でもこうなった原因は
僕を含めて登場人物全員が、知識不足だった。
ただそれだけのことです。

父がイライラしていたのは確かですが、
それは労働する以外の方法を知らなかったから。

サラリーマンになることを選んだのも
うつになるまで追い込まれて働いていたのも
僕が自分で稼ぐ知識を持っていなかったから。

 

結局はビジネスモデルが全て決めているのです。

稼げる金額も、自由に使える時間も。

僕が稼げるビジネスモデルを知らなかっただけなのです。

 

そしてこの

「なのに、働けば働くほどお金は増えても、夫婦げんかが増える。いったい、なんだこれは??」という疑問があったことこそが、
僕にとって資産型ビジネスと投資の世界に入る強烈な願望となり、キッカケになった
のでした。

 

はっきり言って、自分の一度しかない人生を
同じことを繰り返す単純作業のような
肉体労働に捧げ続けることは
どう考えても無策であり、無意味。

 

自分がしたいこととは到底思えなかったから
絶対にこの無限ループから抜け出したいと
強く強く強く強く、心のそこから願ったのです。

 

確かに働くことは辛かった。
でも、自分の父母のがんばりは見ている。

自分は肉体労働だけをしていて
本当にいいのだろうか?

どうやったらこの状況から
抜け出せるんだろうか?

そう思っていて、でも誰も答えなんか
教えてくれませんでした。

今のようにインターネットもなければ
成功者の知り合いもいませんでしたからね。

とにかく、僕はすがるような思いで
本を読みまくりました。

バイト代を全部、ブックオフに売っている
自己啓発本につっこんだのです。

もう、必死ですよ。

いろいろなビジネスの本や自己啓発本を読み
なんとか家族がこの状況から脱出できれば、、、
と思ったのです。

 

だって悔しいじゃないですか。
幸せになるために働いているのに、
それが原因ですれ違いが起きて
ケンカしまくったり。


言っちゃあれですが、本末転倒です。
そんなことになる必要は、全くない。
子供ながらにそう思ったのです。

 

これってどの家庭でも
よく起きうる問題だったりします。

一生懸命サラリーマンで働いていたり
バイトをしていたり、自営業をしていたり。

でも稼ぎはよくなっても時間がなくなることで
コミュニケーションが減ってしまって仲が悪くなったり。

子供を育てるために仕事しているのに
そのストレスで子どもに当たったり
酒に逃げて子どものことを無視したり
可愛く思えなくなったり。

そういうことってどの家庭でも起こり得ることですし
実際にそういう人はいます。

 

しかし、そういった危機感を持っていても、ぼくはただの少年でした。
小学校中学校程度の自分の実力では、こんな
見えない大きな壁をクリアするためにどうしていいか全くわからず、
結局高校を出ても何もアクションはできませんでした。

それどころか、大学に入っても在学中に起業をするのではなく、
さらに社会人になるまで労働の道へと進んでいくことになるのです・・・

大学生〜アルバイトを頑張るがお金は増えず

大学生になり、自分の社会勉強ということも考えて
色々な職業をやってみました。

 

当時はありがたいことに人生で2人目の彼女
(当時自分の中でめちゃくちゃタイプでした。)もいたので
やっぱりお金がかかるわけですよ。

デートするにも、ご飯行くにも、
あんなことやこんなことするためにも。笑

そりゃもう、必死にバイトしましたさ。

それに途中で彼女が留学に行ったので、
男見せたくて「留学先まで会いに行くわ」
なんて大見得を切ったので必死です。笑

 

なので、とにかくめちゃくちゃ働きましたね。たとえば
・派遣社員として、教科書を一人分ずつの
セットにして輪ゴムで止める作業。
意外とキツい。
専門書を20種類ずつまとめるので
1つの束で10キロくらいになる

・引っ越しのアルバイトでは5階までエレベーターなしで
階段を使って冷蔵庫や重い荷物を持っていく
1現場が終わったと思ったら、そのまま2現場目へ。

 1日で無理だってなって、やめる。

・家庭教師をしたり。

・アパレルで店員をやってみたり。

・最終的には大阪を代表する繁華街・北新地の近くの
まあまあ高級な居酒屋のアルバイトをしていました。

ここで6ヶ月以上働いて稼いだお金は
1回海外旅行するだけで吹っ飛びました。

 

でもどれだけやっても居酒屋バイトで
時給が10円上がっただけでした。苦笑

↑これが労働者の仕組みの限界

 

とにかく親の教えのとおり
仕事を頑張れば報われると思っていましたが
それは完全な間違いでした。

選ぶ職業ミスると収入は全然上がりません。
サラリーマンやっていたら安定が手に入る代わりに
莫大な利益が入ることはない。のと一緒です。

バイトはバイトの給料しかもらえないのです。

 

労働者としてのスキルをいくら高めても、
経営者や投資家としてのスキルは上がりません。
だからいくら働いても、周りから頼りにされる分
忙しくなるだけでした。

バイトも毎月、よくて10万程度。

 

アルバイトを頑張る→時給上がらない。
→でもアルバイト先の飲み会が増える
→バイト代がバイト先の人間関係に消えていく

という意味不明なループに突入しました。苦笑

 

要は、働くために働いている、みたいな。
これ、どんな人でもあるあるじゃないでしょうか。

会社の無駄な付き合いや飲み会でお金が減る。
時間も使ってしまって気遣いもしてヘトヘト。
副業やビジネスどころではない。みたいな。

そういった無駄な付き合いは極力削って
本当に自分がやるべきこと(資産型ビジネス作ること)に
集中をしたら、マジでビジネスが跳ねます。

今振り返ってみると職場で出会った
どこの誰かも分からない人に気をつかい
「億人はいい人だ」と思われないと
この世で生きていけないと思い
必死に愛想笑いをしながら
好かれるための努力をしていました。

 

繰り返しですが、これ全くいらなかったです。

会社員〜「クズ」「死ね」「2度とツラ見せんなボケ消えろ!」パワハラ上司との出会い

そんなこんなで親からの
労働の価値観を刷り込まれたまま、

労働者としてのスキルをとにかく
上げようとしていましたから
就職活動でも自己成長できる環境であることを
軸に会社を選びました。

選んだのは人材系大手の企業。
「うちは成長できるよ」
「人材系はどの企業でも採用するでしょ?いろんな企業見れるよ」
と言われたので、どの会社を選んでいいのかも分からず
将来的に潰しがきくと思って選びました。

また、面接が5回ありましたが、
そこで会った人全てが優秀で
キラキラしていたのも大きかったです。

ただしこれはただの幻想ということに、入社後気づきます。

社内で比較的キラキラした社員は、
大事な採用PRのためどの会社でも出してきます。

そりゃそうですよね。面接とかグループ面談で
疲れ果てた今にも会社を辞めそうな社員が出てきたら
採用ができなくなるに決まっていますから。苦笑

で、入社してみてやっぱりギャップがありました。
しょせんラーメン屋でバイトして、
居酒屋でバイトした程度の大学生のくだした決断です。

1つ目の大きなギャップは、
思ったよりも大規模な組織だったということ。

成長できるっていうことは
自分の責任の範囲でいろいろできると思っていましたが
社員が3000人ほどいましたので、思ったよりお固い会社だった。

つまり、僕にはまったく裁量がありませんでした。
上司の言うことを聞くのが絶対条件。
会社の歯車でしかなかった。

お役所みたいに社内政治もたくさんありましたし、
無駄なハンコ文化もありました。

契約書を書くのがすごく複雑で
ムズかしかったので、よくミスをしました。

すると経理とか営業事務の人からあからさまな嫌味を言われたり。
非協力的なこともめちゃくちゃされました。

当時はまだまだ僕も尖っていたので、
「は?別にミスしたくてしてねーし。
営業事務なら営業のサポートしろや」
みたいに僕も上から目線で思っていたので、
関係性は最悪でした。

契約書のミスをしたら、お客様にもハンコをもらう。
ミスのことを話すと、お客さんはメールをくれて
「このメールで済ませといてよ。ハンコめんどいよ」と言ってくれるにも関わらず
僕の会社では「ハンコ絶対もらえ。後々のトラブルにならないように」と一点張り。

正直、メールで了承もらってたら別にいいじゃないかって話で。
今みたいに電子署名とかもなかったですしね。

いろいろ官僚的なところが多くて
無駄がたくさん感じられました。

そういった社内政治とかで、くだらねーやりとりをするのが
めちゃくちゃストレスに感じました。

 

さて、僕が配属されたのはリク○ビみたいな採用広告の営業マンでした。
ですが、僕は全然売りたくなかった。わがままな話なんですけど。

っていうのも会社の極秘データだったんですが、うちの会社の広告媒体は
15/100社のみ採用できていたので、商品力低いと思ったんです。
「採れないのにお金もらうの?よく分からないわ、その感覚」と思い
「売らない」と決断しました。

そのおかげで、営業成績0円が1年以上続きました。

 

その時にはもう、散々言われましたよ。
当時の上司は「うーちゃん」と呼ばれていましたが、
僕がミスしたり営業採れなかったりするたびに
「クズ」「死ね」「2度とツラ見せんな」と言われ続けました。

僕のマンガに出てくるアイツです。)

 

特に「死ね」はマジで響きましたね。
自分の心にもつらい思いが響き渡りましたが、
ビルのフロア貸切のオフィス中に、そいつの「死ね」が響き渡ったんです。

パワハラ上司との出会いでした。
本当に辛かったし、逃げたかった。

 

でも、当時僕はこのように考えました。
「逃げるのなんていつでもできる。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。せっかく大阪から飛び出してきたチャンスだ。
この会社で成功するんだ」と。

はい、完全に洗脳されていました。
弱っていたんです。単純に。自分が。

 

心の底では売りたくないものを売り、(会社と上司が絶対)
選択することを選択できなくなっていき、僕の精神は弱っていきました。

でも、本当は、逃げてよかったんです。すぐに。
辛かったなら辞めたらよかったし、もっと他にスマートな稼ぎ方あったんだから、
1年目の途中で辞めたらよかったのに、と今の自分なら全力でアドバイスします。

でも、当時の僕は無知だった。知識も武器も何もなかったから
世の中の理不尽に耐え続けるしかなかったんです。殴られ続けるしかなかった。

でも耐え続けた時間なんて意味ないし、戻ってこないですからね。

 

僕のちっぽけなプライドとメンタルはズタズタでした。

 

その後、うつ病に。

僕はこの時点で会社を辞めようとしましたが
実は勇気が出ず。

うつ病になっている雑魚キャラに
起業なんかできるのか?をめちゃくちゃ不安になっていたのです。

もじもじしながら6ヶ月後に結局やめることになります。

 

うつ病になった後ですが、奇跡的に上司が変わりました。
あまりにも「うーちゃん」の下では人が育たなかったんで、組織にメスが入ったのです。

そこから新しい上司の助けもあり、VP(個人優秀賞)を受賞する
新人を代表する営業マンになることができました。

最終的には僕はMVG(最優秀チーム賞)をとって退社することになりました。

この時には、さすがにうーちゃんザマァって思いましたね。
うーちゃんのせいで、指導者の指導力不足だけで
僕は死ねって言われたり殴られたりしていたんだ。と思うと涙が出ました。

指導者間違うとこんなに成果の出方が違うんだなと痛感しました。

 

確かに会社員になり、基礎的な社会人のスキルは身につきました。
タイピングスピードは早くなりましたし、社会人マナーも身についた。
パワーポイントで資料を作るのも朝から晩までしていましたし、営業電話もかけた。

ですが、自分が売りたくないものを売っていたことによる自信の喪失や、
営業することへの苦手意識、とにかく業務の量を増やすんだという圧力、
激務とプレッシャーですさんだ心を治すには半年ほどの時間がかかりました。

正直、起業して仕組みを作ったら、そこまで働きまくる必要ないです。
経営者や投資家として生きるには、会社で教えられて使えないことなんか、山ほどあります。

だから、違和感を感じてある程度がんばって、それでもダメだったら辞めてしまっていいと僕は思います。
(もちろん最低限の生活ができるような戦略や実践は必要です)

 

うつになりさらに6ヶ月ほどが経ち
僕は会社をやめることになります。

この時点では具体的なビジネスプランは全くないです。
ここからさらに模索の日々が始まります。

独立後〜資産型ビジネスとの出会い

会社を辞めたものの、結局稼ぐ力がないから、
アルバイトをして食いつなぐ日々でした。
この時点ですでに24歳。

・深夜のカラオケのバイト
・5階までエレベーターなしの引っ越し
・両親のラーメン屋のバイト

 

などなど肉体労働で月15〜20万を稼ぐのがやっとの日々。
その間に本を読んだり、自己流で1年近くいろいろ
起業の方法を模索するも結局やり方が分からない。
時間ばかりが過ぎていく。焦りだけが、つのる。

「俺は、悪くない。会社が悪かったんだ。でも、俺は結局稼げてない。だせえ。」
「悔しいけど実力が、ないんだ。何かやらないと、何かやらないと」
「起業したことないのに、起業の方法なんかわからない」

いろいろな成功者の本を読み、成功法則を学びました。
でもどれもこれも、最初から大きな事業投資が必要なものばかり。

 

「1000万の借入をして、それで飲食店をするんです」
「コンビニのフランチャイズで儲かりました 頭金500万で成功できるなら安いもんですよ」

などなど。正直、その時の僕には使えないものばかりでした。

「どれも今の自分がやってもうまくいかなさそう。しかも借金なんて・・・俺がやっても無理そうだし」

そんな時・・・ごろごろしながらネットサーフィンしていると
「あなたも自宅で絵簡単起業!インターネットビジネスならあなたの人生変えれます。
私もダメなサラリーマンでしたが、今では月収200万円!」
という広告が。

 

「どれどれ。どうせしょーもないこと言ってるんでしょ。」
とダメ出しするようなつもりで見ましたが、
意外にも内容はすごく理にかなっていました。

そこで知ったのは
インターネットを使った資産型ビジネスをすれば

・PC1台で起業
・リスクほぼなし
・家でできる
・一度コンテンツ作ったら
自動で拡散されて稼ぎ続ける

・お金と時間が増え続ける

ということ。

しかもインターネット市場はどんどん拡大している。

メルマガの人は言いました。
「今までうまくいかなかったのは、あなたが悪いんじゃないです。
稼ぎ方を知らなかっただけなんです。
ちゃんとした知識を入れて稼ぎ方を知れば、ほぼリスクなく起業することができるんです」

(億人)
「これだったら、今のオレでもできるかも・・・」

僕はいつの間にかのめり込み、入塾を決めていました。
塾の費用は20万。(オプション付けて結局30万)

「20万か・・・デカいな。俺の1ヶ月分の給料か。
でもお金は、1ヶ月本気で働けばなんとかなる。
俺はもうこのまま未来に希望を持てずに
会社にいても、会社を辞めても結局何も変わっていない。
変わらなきゃいけないのは自分だったんだ。
プライドを捨てろ。お金を稼ぐ知識とやり方を今すぐ学べ。
もう、労働し続けて飯を食うだけのこの人生は嫌だ!」

そう思い、覚悟をしてポチった。
僕はブログ塾に入塾した。
結果的にこのたった1つの出会いが
俺の人生を大きく変えることになりました。

 

動画のコンテンツを貪るように見て、知識を入れて猛勉強。
でも最初は全然成果が出なかった。

「あれ?思ったようにアクセスがこない」
「あれ?なかなか収入にならないぞ・・」

 

何か変えないと、、、と思って
リアルのセミナーも開催されたので、
成果出てなくて恥ずかしいけど、勇気を出して行ってみた。
実際に会うことで吸収できることは多いと思ったからだ。

その怪しいおじさんは、実際に会ってみたら、めちゃくちゃいい人だった。
印象も全然違った。大人っぽい雰囲気に、落ち着いた人柄に、余裕のある言動。

車もデカいBMW(SUV)に乗っていた。くやしいけど、かっこよかった。

「億人くんもコンテンツ通りやってみてね。
知識つけて繰り返し学んで、少しずつ身につけて成長していけば稼げるようになるよ」

(億人)
「はい、がんばります!」

このたった1つの出会いと会話を支えに、
俺は本当にインターネットビジネスで稼ぐんだと決めた。
他の誰が何を言おうとも、自分の人生の価値を決めるのは俺だ。

そこからはバイトも辞めて、一日中インターネットビジネスにのめり込んだ。

改めて何度も何度もコンテンツを見直し、知識のモレをなくしていって
ネットで稼ぐことについての理解度が深くなっていきました。

「お、今日は1000アクセスも」
「え、2万アクセス!すげえ 後発でも全然できんじゃん」
「アクセスって意外とたくさん来るよな」
「対面営業しなくていいのが精神的に楽だな」
「たくさんの人の中で興味がある人だけに営業できるのがいいな」

そして、ある時に全ての点と点が線に繋がる瞬間がついに来ます・・・!

「うお、報酬入ってる!3000円も?!」

最初の報酬は本当に嬉しかった。

「俺の情報が人の役に立って、ものが売れた。
俺は自分の力で稼げたんだ。これを増やしていけば、、、いける!!!」

その後、サイトは成長し続け、

そう、これこそが僕が人生を大きく変えた
資産型ビジネスとの出会いでした。

幸いにして僕は、その後インターネットビジネスと投資に出会い、
資産型ビジネス×投資によって時間とお金を手にすることができました。

お金と時間があるからこそ、好きなだけ時間をかけて
株式投資や仮想通貨投資にチャレンジしたり、
マイニング工場を作るためにモンゴルに視察に行き
その場でマイニング工場のオーナーになったり。

冒頭で話したように
ブルーロックのアプリ開発の支援をしたり。

資産型ビジネスと投資を掛け合わせることで、
セミリタイアを経験することとなりました。

 

旅行しまくったり、朝まで飲みまくったり。
いや、正確には夜8時に起きて昼の12時までお酒を飲むような
昼夜逆転のパリピ生活をしていました。

そのせいで1年で20kg太り、ダイエットするためにパーソナルトレーング受けたり。

MBAも取得中です。

自分の武器を磨こうと思っていたので、
海外のMBAをオンライン学習して取得しています。
これは時間がないと絶対にできないことなので、
まとまった時間を作ってやっています。
まだ取得は少し先ですが、受けたい授業を優先して受けて
自分の資産型ビジネスや投資判断の糧にしていっています。

それもこれも、資産型ビジネスで資産と自由な時間を構築することができたからです。

 

今もまだまだ挑戦をし続けています。
自分よりすごい人は山ほどいるからです。
こんなところで止まっている場合ではありません。

 

僕は人生を変えてくれた出会いは25歳のときに
あやしいおじさんに出会ったことでした。

正直、世間で成功者と呼ばれる方々に比べると
遅いスタートだったように思います。

でもだからこそ、人生は重要な知識にふれて、
それを活用していくことでいつからでも
人生を変えていくことができると僕は思っています。

 

だから、長くなりましたが、過去の僕と同じような
境遇の方の人生のお役に立つような
情報発信をしていきたいと思っています。

・働くために働いている

・働いても働いても人生が好転しない

・会社を辞めたいのに辞めれない

・パワハラ上司がいる

・会社の言うことが絶対

・会社を辞めたら、どうやって稼いでいいのか分からない

・働いても働いてもお金が増えない

 

全然、今からでも変えれますよと言いたい。

きちんと知識を付けて実践していけば、
資産型ビジネスを作ることは今でも全然可能ですし
それを元手にして投資していけば
長期的に資産は増えていきます。

これらを統合的に教えられるのは
僕しかいない。そう思っています。

 

これは知識を知っているか知っていないか。
そしてやるか、やらないか。ただそれだけの違いです。

僕は、起業してしんどいと思ったことは1秒もなくて
会社員の方がよっぽどしんどかったので
会社で働いたり、アルバイトしたり、主婦をしたことがある人の方が
よっぽど普段僕よりも努力をされていると思います。

なので、全然大丈夫。全然できます。

日常生活となんら変わらないです。
むしろ今までがんばってきた自分を褒めてあげてください。

 

僕もまだまだ、道半ばです。
もっともっと成長していき
今まで見てなかった景色をみていきます。

昔は1万、2万のコンテンツを買うのにも
迷いまくって1ヶ月とか時間かけてましたが
今までは思い切って自己投資もどんどんしています。

先日も1500万、400万と自己投資しました。
知識と経験が新しい富を産んでくれることを知っているからです。

欲しかった高額の本を買って読み漁ったり、
受けてみたかった高額のコンサルを受けたり。

こうやってどんどん知識と経験にお金を使っていく。
そしてそれが新しい資産型コンテンツになり、またお金をうむ。

この流れを作り、自分の専門分野の深堀りと新領域のチャレンジを繰り返していき
リスクを低く大きなビジネスになるチャンスを少しずつ育てていく。

これを繰返していくことがビ
ジネスマンとして成長・成功するために
すさまじく重要です。

資産型ビジネスで仕組み化し、お金と時間をうむことで
自分だけの独自の経験と知識のかけ算ができます。

すると、今まででは考えられないほどに、人生が一気に加速してきます。

 

これが今、僕が生きている世界です。

長くなりましたが、僕の自己紹介はここまで。

また追記などしていくかもしれません。

 

ただのゴミカスうつ病営業マンが
どのようにして年収3億になり
時間とお金を作り出す資産型ビジネスに出会ったのか?
そして資産型ビジネスによってどのように人生が変わったのか?
についてもお話してきました。

このお話は資産型ビジネスを作りたい方にとって重要なことを
いろいろなストーリーを交えながらお伝えしてきたものなので、
何度も読み返していただけたら嬉しいです。

 

人生はいつからでも変わるし、
いい情報との出会いで、一瞬で変わります。

それを僕の持っている知識から
学んでいただければと思います。

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