父との愛憎:億人物語Episode 1

今回は億人の物語で、
父との愛憎劇を話そうと思う。(他の億人物語はこちら)

かなり厳しめの父から学んだことは
山ほどあるので学びにもなるはず。

 

・厳しさも愛。
・厳しさは相手の光、ポテンシャルを信じているからできること

このあたりはとても良く感じ取ってもらえるかと。

 

僕はもともとはただの労働者で、
能力も知識もやる気もない男だった。

唯一人とちがったのが、10歳の頃から
両親のしていたラーメン屋でアルバイトをしていたこと。

本当はバイトなんかしたくなかったし
友達と遊んでいたかったけど、
とにかく父が怖かったからやった。

まずはどれくらい父が怖かったか、話そう。

父の詳細

父はもともと九州で生まれて
10代から酒を飲み、
他人のバイクを盗んで配線をつなげ
夜中に走って明け方に返していたという
まさに尾崎豊の15の夜みたいな人生を送っていた。

父は柔道をやっていて、喧嘩も強かったので
学生時代はよく喧嘩を売られたそう。

10人くらいに囲まれたけど返り討ちにしたら
次の日に学校を退学になったり。

そういう武勇伝がとにかく尽きない人間だから
小さい頃の僕は父が怖くて怖くて仕方がなかった。

家庭と仕事場での厳格な父

完全な亭主関白で、母は父の言いなり。
基本的に父が押さえつけるような一党独裁体制だった。

でも元々の気は小さく、人見知り。
酒を飲んでいる時には気が大きくなる人だった。

そんな強めの父の家に生まれたので
僕に人権はなかった。

「誰もおらんから、お前働け」と父に言われ
嫌々だけど働いていた。

弟は遊びに夢中で8歳だった。
とても代わってくれ。などと言えなかった。

10歳の時にラーメン屋を開店したので
その日から僕は社会人だ。

初日から完全に大人と同じ扱いをされた。

毎週土日は必ず働いていた。
働きたくなかった。

やる気のなさがお客さんにも伝わって
ある日、怖いおじさんに怒られた。

「てめえ、聞いてんのかコラ!」と。
半泣きになりながら謝って
そこから声をちゃんと出すようにした。

なんでこんなやりたくもない仕事
一生懸命やらなきゃならんのや。と思いながら。

他にも理不尽は多くて
今だと考えられないけど
僕が5〜6歳くらいの時には
隣町にある弟の保育園に自転車で
弟を迎えにいっていた。

使えるものは家族でも何でも使う。
特に母と僕はよく働いたと思う。
それが父のやり方だった。

父がアルバイトを雇えないくらい
気難しい人間で職人気質だった。

アル中の父

なのにアル中だった。
もう時効というか店もないし言っちゃうけど
毎日朝から晩まで酒を飲みながら仕事していた。

ビール、焼酎を飲みながら
ふらふらになって仕事していた。

だから子供ながらに見て決して
能率がいいようには思えなかったし
この人は何をしているんだろう?と思った。

もっとちゃんと仕事すればいいのに。と。

父はそんなふらふらで働いているにもかかわらず
バイトにも普通に怒るし、
なんならお客さんとかと喧嘩したり。

お客さんに怒った原因は、
ちょっと注文の言い方が生意気とか、ナメてるとか。

「おい、おっさん。替え玉くれや」
みたいなことを言う調子のったやつがいると

「なんやテメコラ。表でろ」と。
すぐに喧嘩しに外に出ていった。

たまたまラーメンを食べにきてた
仲裁をした警察官とかにまで
「お前は関係ないやろ。引っ込んどけ」といって
暴れ散らかしていた人で。

けっこう周りにいる人間としては大変だった。
手がつけられない感じだった。

他のお客さんそっちのけで
喧嘩に明け暮れた。

スマホが発達した今では考えられないし
絶対に炎上してしまうような
異様な空間に仕上がっていた。

忙しければ忙しいほどに沸点が劇的に下がる
父の言動で僕と母はひたすらキツい思いをしていた。

家族連れがきても父は不機嫌になった。
確かに家族連れは食べるのに時間がかかるし
子供の年齢が3歳とか5歳だと
ラーメン1杯を3人で分けたりする。

これでは商売上がったりだ。

でもそのことに対して
「そんなにイヤなら子供連れお断りって書けば?」と進言しても
それはしない。と言って
また子供連れがきたら不機嫌になる。

そんな感じの不器用な父だった。

一番悲しかったこと

一番悲しかったのは
仕事中に母を蹴ったりしていたことだ。

これには何とも言えない感情になった。
二人とも大事な両親だ。

でも父はカッとなると
後先考えずそういうことをしてしまった。

わざとではないかも知れないけど
母の背中にお湯がかかったり。

それについても謝らなかった。
たまたまだ。と言って。
たまたまでも謝ればいいのに。と思った。

酒を飲んでいるから気が大きくなり
父は暴力的になる。

それでも、酒はやめなかった。

 

でもラーメンにかける思いは人一倍で
うまいものを腹一杯食わせる。という信念のもと
父はラーメン作りに勤しんでいた。

月の半分以上を休んだり。
それによって赤字になってでも
ラーメン屋の味への評判だけは
関西でも随一だった。

そういう生活が20年ほど経って
先日、父のラーメン屋は幕を閉じた。

 

その間、父に褒められたことはなかった。

いや、正確には高校受験で
行きたかった高校に行けた時には
一度だけ思いっきり抱きしめられた経験がある。

それは今でも忘れない。
父は自分が勉強できなかったのに
子供がある程度の進学校に行けたことに
とても誇りを感じていたようだ。

 

小さい頃から教育には金をかけてくれていた。
僕はやりたくなかったので全部やめたけど
野球、サッカー、バスケ、空手、柔道、そろばん、水泳などなど。

あらゆる習い事をお金がない中でも
させようとしてくれた。

僕のポテンシャルを見てくれていたからだ。
それに関しては心から感謝している。

結局スポーツ系に熱力がなく続かなかったけど
こうやってチャレンジさせてくれたことは感謝。

ど貧乏からの成り上がり

とはいえ
うちが景気よくなったのは
ラーメン屋を始めてからで
それまではド貧乏だった。

家賃4万のアパートに4人暮らし。
和式トイレで、風呂は半畳のとても狭いものだった。
床はキシキシ鳴るし、家の裏にあった
森みたいなところから蚊が大量発生していて
夏場は地獄だった。

冷房はかけると怒られるし
窓を開けて扇風機とうちわで自分をあおぐ。
あおいだことでまた暑くなる。という
謎ループが発生していた。

そんな家からのスタートだった。

父がラーメン屋を始めて
命懸けで守ってくれた家だった。

だから多少酒を飲んでいたのも
暴れ回っていたのも、忘れた。
過去の話だ。過ぎてしまえば関係ない。

当時のラーメン屋で働いていたことを
父とたまに焼酎を飲みながら振り返ると
つらい思いさせてごめんな。お前には辛い思いさせたな。と
自分の中で美談にしたいであろう父がよく言ってきますが
僕はそんな風に思ったことはない。感謝しかない。といつも伝えています。

辛かった部分も確かに(大量に)あるけど、
今となってはトータルで感謝しているから。

たしかに当時はお前が働かんかったら店は、どないすんねん!!!
毎週怒られていたから仕方なくやっていた。

それを考えるのが経営者である父の仕事では?
と思いながらも、本人は変わる気が一切ない。

そりゃあ、とんでもなく嫌でした。

遊びたかったし。そんなに人間できていなかった。
ただの小学4年生だから。

勉強にも集中できないし、遊びもそこそこ、
仕事だってさせられて、土日は疲れ切って寝る。

何のために生きているのか分からない。
遊びたい。友達欲しい。イケてる仲間のところに入りたい。
そんな思いは虚しく、毎週労働のコマとして働いていた。

父は僕が好きなんじゃなくて
働く僕だから家にいさせているんだ。って。

 

実家とは言えど、正直
気が休まる瞬間はなかった。

勉強もめちゃくちゃさせられたし。
1秒も勉強が楽しいと思ったことはない。
父に怒られるから仕方なくやっていただけ。

ラーメン屋も親からさせられていた仕事だったし。
僕は仕事も勉強も何もかも中途半端だった。

それでも、ガキはガキなりに
がむしゃらにその日1日1日を生き切った。
という感覚だけはある。

大人になってビジネスやって認められた

でもそうやって毎日必死に生きて
誰にも褒められることなく頑張って
30歳を過ぎた頃に父に褒められた。

お前も、ようやってきたな。と。
この時はさすがに涙が出た。

 

今振り返ってみると
理不尽言ってくれる人って、超絶貴重で。

その相手のポテンシャルみていないと
その人の中の光をみていないと、
絶対に言えないんですよね。

厳しさこそが愛だな。と。

これは古い考えかもしれないけど
興味がなかったら厳しいことも言わないし
途中で誉めていたと思う。

でも、数十年も誉められなかったので
慢心は絶対にしなかった。

もっと良くならないと父に怒られる。
もっと勉強しないと父に怒られる。

クソ、褒められるにはどうしたらいいんだ。って。

 

当時はやらされ仕事だったし
悲壮感で頑張っていたけど
それでも何もやらないよりはマシだった。

父は僕に
お前はもっとできる。ということを
厳しく教え続けてくれていた。

正直、感謝しかない。

厳格な父という強制力

父が厳しくしてくれたおかげで
僕にやるしかない。という
強制力が働いた。

昔ながらのがんこ親父で
理不尽だったからこそだ。

これが何やってもいいよ。
好きなことだけやっていればいいんだよ。
って言われてきていたら、
やりたくないことは積極的に逃げていたし
もっともっとヘナヘナの雑魚キャラになっていたな。と。
つくづく思う。

 

僕は生まれついてのサボり癖があるし
そういうのを父は見抜いていたんだと思う。

だから僕が人生において大切なことを
身につけるまでは嫌われる覚悟で
くどくど言ってくれたんだろう。

 

今となっては新しいことにチャレンジするのも
苦手なことや理解できないことにチャレンジするのも
努力が努力でもなんでもなくて
ただやっているだけ。と言う感覚。

やるのが当たり前。
動かない方が気持ち悪い。
という感覚になれている。

だってどっちにしてもやらないと
目の前の問題は解決しないし
どうせやるんだから、
とっととやろうよ。っていう。

だから僕は常に仕事しているか
インプットしているかのどっちか。

基本的に休みとか取らない。
休んで何をしていいのかも分からない。

泳がなかったら死んでしまう
マグロのようなもんだ。

だから時間がある時は
とにかくレポート書いたり文章書いたり
名作に触れたり、その分析をしている。

この基準値でやっているから
ビジネスでうまくいかないわけがない。

環境の力を借りよう

で、これは父がたまたま厳しかったから
環境の力を借りることができたけど

別に僕のような特殊環境じゃなくても
誰にでもできること。

やらなきゃいけない
環境づくりをすればいいだけ。

お金を使って自分を追い込むとか
高額コンサル入って自分を追い込むとか。

そういうことを繰り返していくだけ。

 

あと今になって振り返ってみると
人よりほんの少しだけ早く社会に触れられたので、
危機感を早めに感じることができた。

その後、父のラーメン作りの努力の成果で
繁盛店になったラーメン屋で働くなかで、感じたこと。

それは労働者として働いている限りは
いくらお金は増えたとしても、時間がなくなっていくということ。

父母は家族のために馬車馬のように働きました。
休みなく、朝8時から準備をして、10時に開店し、
夜11時まで働くという日々。その間常に超満員でした。

お店の開店前から閉店まで
行列が絶えることはなかった。

だから儲かっているが、ストレスも大きい。
家族との時間が減るから。
仕事終わったらビール飲んで飯食って寝る。会話する暇もない。

結果として、父母はケンカが多かった。
それが子供ながらにとても悲しかった。

僕も手伝いをしている中で
「なんでこんなに忙しくてお金も儲かっているのに、ケンカばかりなの?
幸せになるために仕事してるんじゃないの?」という純粋な疑問が出てきた。

これが僕のいう労働の限界ってやつ。

労働の世界では
トレードオフが働いている。

あっちを立てればこっちが立たず。
と言うやつですね。

全力で拡大再生産すべし

だから最初は労働者として
生産性を上げることに注力しながらも
その先には自動化もしっかり覚えていく。

これやっていくとマジで無双できる。

どんどん再投資していく。
これを拡大再生産っていう。

10万つかって20万儲けて
20万つかって50万儲けて。
50万つかって200万儲けて。

こうやって人間の能力と収入は伸びていく。
自分のコップ、器を大きくしていくイメージだ。

いつも言っていることだけど
本当に重要すぎるから何度も伝えている。

父はラーメン屋をやめ
その後は悠々自適に生活している。
まとまったお金ができたからだ。

以前のように怒ったりすることは無くなった。
朝から酒を飲んでいたのも、仕事のプレッシャーや
ストレスからくるものだったようで、
最近は朝から飲むことはない。

趣味のバイクに乗ったり
毎日散歩して体を動かしている。

料理は好きなので、毎日
母に手料理を振る舞っている。
それを食べるのを見るのが
とても嬉しいみたいだ。

でも母は料理の量が多過ぎて食べきれない。
すると父親は不機嫌になる。

うちの実家の日常だ。

うまいものを腹一杯食わせる。という信念は
ラーメン屋をやっていた頃と変わらない。

父から学んだことまとめ。

・厳しさも愛。
・厳しさは相手の光、ポテンシャルを信じているからできること
・やるしかない環境づくり重要
・労働は時間かお金が不足する世界
・生産性を上げる。自動化の構造を取り入れる。

 

読んでいる人の中には
なんで父がこんなに理不尽な人間なのか?
厳しく接してくるのか?が気になる人もいると思うけど
それはまた別の機会に話そうと思う。

一言だけ言っておくと
僕自身は父の本質を大きく見誤っていた。

人は真実を知ることで
世界の見え方が全く違ってしまう。
ということを実感した瞬間でもあった。

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